筆記本

足を運んだもの

20190707 Queer Animation Screening! 201Q クィア・アニメーション上映会@東京藝術大学大学院 馬車道キャンパス

東京芸術大学大学院映像研究科主催の企画。詳細はGEIDAI ANIMATION

タイトルに「クィア」がついていて、しかもゲストはクィア理論を専門としてきた方だだったのでポスターを見てすぐ行くことを決めた。上映された作品のなかには分かりやすいものもあれば、全然分からないものもあった。その中で、特に印象に残ったものふたつ。

 

Diane Obomsawin " I Like Girls "


I Like Girls Trailer (フルも上がっているので気になる方は検索してみてください)

これは個人的にとても好きで、何度でも見たいなと思った作品。4人の登場人物がじぶんの恋愛について語る。言ってしまえば、ただそれだけの映像。だけど、語り口が淡々としているのとか、もっと付け加えてもいいのに言語化されたものを本当に素直にそのままアニメーションにした感じとか、オチもなく突然それぞれの物語が終わる様子とか、それらが合わさってひとつになっているのがすごくキュートで好きだった。淡泊でシンプル。それぞれの語り手が、自分がレズビアンであることをわざわざ言ったり強調したりしないのも、レズビアンであることはとりたてて言及しなければならないような大仰な事柄ではないのだ、と言っているみたいで好きだった。

 

しばたたかひろ " 何度でも忘れよう "


しばたたかひろ/何度でも忘れよう(トレーラー)

映像としては好みではないし、また見たいともあまり思えない。だけど、映像を反芻してあれこれとずっと考えてしまう。上映後に作者本人による種明かしがあったのも大きいのかもしれない。自分はゲイで、そのことを両親に3回カミングアウトしているのに、ぜんぶなかったことにされていて、そのことについてあらわした映像だ、というようなことを言っていた。

なんの情報もない状態でこの作品を見たときには、傷の不可逆性について考えていた。主人公のテディベアは作中で傷を受けるが、誰かがそれを「縫う」ことによって、傷を受ける前の状態に戻った気になることはできる。機能を回復することもできる。だけど、その傷が「なくなることは絶対にない」。作者が作品に付け加えていることばを借りると、「傷ができたこと、傷がそこにある/あったことを、なかったことになんかできない」みたいなことを考えていた。

作者による短い挨拶と、制作意図を語る短いことば。作者は、自分のカミングアウトが「なかったこと」にされたという出来事と、そのあとの自分について考えたことを煮詰めて煮詰めて、あの作品を作ったんだろうなと思った。一方で、わたしはこの作品を、わたし自身が経験した喪失と重ね合わせて見ていたんだろうなとも思った。大切な存在を失うという経験をしたわたしは、それを失うかもしれないなんて夢にも思っていなかった頃のわたしに再び戻ることはできない。一度できてしまった傷は、癒えることはあるかもしれないけど、消えることはない。そして、傷と同時にわたしのなかに生まれてしまった恐怖や不安が完全になくなることもたぶんない。

 

作品の上映の合間に、ゲストと主催者による短いトークセッションも用意されていた。ゲストはジェンダー論、クィア理論、批評理論を専門とする松下千雅子さん。主催者は東京藝術大学大学院映像研究科の矢野ほなみさん。それと、主催ではないけれど翻訳などにも協力していたというノーマルスクリーンの秋田祥さんもトークセッションに参加していた。

まずは、「クィア・リーディング」についての説明。検索したら松下さんの科研の報告書出てきた。

kaken.nii.ac.jp

クィア・リーディングに関してはまだ全然かみ砕けてないので、とりあえず科研の報告書から引用してみる。

文学の読みにおいて、テクスト内の登場人物の性的な欲望や行動が描写され、そのことによりホモセクシュアルであると決定されうるとしたら、それはどのようにして可能になるのか。そうした描写は誰に帰属するのか、誰がその描写の意味を解釈するのか、そしてその人物のセクシュアリティを判断する決定権を持つのは誰なのか。本研究では、これらのことを明らかにし、同性愛者がクローゼットの中にいるのか外にいるのかという議論ではなく、クローゼットそのものがどのようにして構築されていくかを明らかにした。

トークセッションのなかで、ノーマン・マクラーレンという映像作家(映画監督)が話題に上がった。矢野さんいわく、矢野さんが彼の " Narcissus " という作品を分析する際、彼が同性愛者であると言及することはアウティングにあたると認識しているため、作品の中に「同性愛的な描写」があることと、彼が同性愛者であることを直接的に関連付けたくないと考えているものの、適切な分析方法(あるいは作品の「読み方」)も分からず困っているときに、松下さんのいう「クィア・リーディング」に出会い、視野が開けたという。(違ったら連絡ください……)


Narcissus

矢野さんのお悩み相談、みたいなのをきかっけに、トークの主題は作品と読者(≒作品を解釈する存在)の関係に移っていった。読者による「読み」は、その作品が持ち込まれる「場の文脈」、あるいは、読者自身が作品を「読む」際に持つ「欲望」に左右される。というような話におおむね収束していった。フィッシュの『このクラスにテクストはありますか』に出てくる例みたいだなと思いながら聞いてた。(複数の単語の羅列は、それ自体が「メモ書き」や「詩」であるのではなく、それを「詩」として読み解こうとする解釈共同体によって「詩」であると解釈される、みたいなやつ)

でもって、「持ち込まれる場の文脈によって、意味付けが変化する」って作品に限らず人にも言えそうで面白いよなと考えたり。ある人物に対する他者による解釈をラベリングと言うべきかポジショニングと言うべきかわかんないけど。なんとなくアイデンティティの話とつながる感じがして楽しい。

関連があるとは思ったけど、役に立つと思って専門でもなんでもない文学理論かじってたわけじゃなかったから、思いがけないところで役に立っててなんとなく愉快。

おわり

20190427 瀬戸内海のカロカロ貝@北沢タウンホール

恒例のハッピーガールっぷりを発揮した。何度トライしても取れなかったチケットを直前に譲っていただいて、かが屋の第2回単独公演を見てきた。めちゃくちゃ良かった。あまりにも良すぎて、なのにどこか胸が苦しくて、笑いながら泣いてた。

北沢タウンホールは、下北沢駅から歩いて5分くらいのところ、ふだんは近隣住民が公的な手続きなどをするような建物の中にあった。あまりふかふかとは言えない椅子が並ぶミニシアターみたいな、今まで行ったなかでいちばん近いのだと塚口サンサン劇場かな、そんな感じの、300人くらいが入るこぢんまりしたホール。

ホールの入口につながる階段のそばで整列して階段を上がり、チケットをもぎってもらう。ファンの方から贈られたらしいお花を横目に劇場の扉をくぐると耳馴染みのある音楽が聴こえてきて、かが屋のふたりや、公演の手伝いをしたであろうかれらの仲間たちが、自分と同じ世代だということに思い当たる。そして、なんとなくくすぐったい気持ちになる。

舞台が見やすそうな座席に腰を下ろして、チラシをぱらぱらとめくる。グッズでも買いに行こうかなと思っていると、不意に、聞き覚えのあるベースと、それに続く軽やかなギターのストロークが場内に流れた。そして、伸びやかなトランペット。

5限が終わるのを待ってた わけもわからないまま

椅子取りゲームへの手続きはまるで永遠のようなんだ

とりわけ思い入れがある曲でもなかったはずなのに、日差しでなまぬるくなった各停電車に乗って、うとうとしながらこの曲を聴いていた頃のことが急にフラッシュバックした。自分でもびっくりしたけど、ちょっとだけ目の前がにじんだりなんかした。大学への入学が決まったとき、第一志望に入れなかったことへの劣等感で頭がいっぱいだった。これから通う大学に期待も希望もなく、傲慢でありながら卑屈だった。大学1年生の4月、大学に向かう電車のなかで窓の外を流れていく景色を見ながら「いつかこの風景が懐かしくなる日が来るのかな」とぼんやり考えていた。1年くらい経って、いろんな本や人と出会ってだんだん大学生活が楽しくなってきた頃。その頃によく聴いていた曲だった。いつか懐かしくなるんだろうなと思ったあの頃が懐かしくなって、開演前にちょっとだけ泣いた。(andymoriで胸がキュウとなりすぎてポエムのようなプロローグ)

単独公演で見たコントは全部で7本。

オープニング(タイトル不明)/リズム/ランチ/親友/市役所/電話/始発

ぜんぶ好きだったけど、特にグッと来たのはランチと市役所。ひとつひとつのコントに登場するキャラクターがぜんぶちゃんと「人間」で、それぞれに個性があって、クセがあって、ずるい人もいればお茶目な人も天真爛漫な人もいて、かが屋がつくるこの世界観がほんとに好きだなって思った。

めちゃくちゃネタバレしているので、たたんでみた。

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20190224 シアターコモンズ'19「可傷的な歴史(ロードムービー)」@ドイツ文化センター

1月に見たカタストロフと芸術のちから展で気になっていた田中功起の映像を見るために行ってきた上映会。青山一丁目ってはじめて行ったけど、思ってたよりいかつくない街だった。

映像は透明感があってうつくしい。ウヒとクリスチャンによる対話で、映像は進んでいく。冒頭でふたりがそれぞれに自身の来歴、いわばかれら自身についてのライフストーリーと家族のヒストリーについて、映像を見ているわたしたちに紹介してくれる。遅刻してしまってウヒの部分は見逃してしまったけど、クリスチャンの部分はほとんど見ることができた。クリスチャンを大雑把なことばでまとめてしまうと日系(アメリカ系?)スイス人。(母方の)祖父母が日系人差別を受けた世代の日系アメリカ人2世で、母が日系アメリカ人の3世。父はたしかスイスのひと。

ちょうどこの間アメリカのロサンゼルスに行ったばかりだったので、日系アメリカ人について映像のなかで触れられていたことに、どこか運命のようなものを感じてしまった。ちょっと大げさかな。アメリカでのこともそのうち書かなきゃだな。絶対に書き残さないといけないわたしの内面についての気づきがあったから。

いい意味でも、あんまりよくない意味でも、あまりにも多くのことが引っ掛かる映像だった。映像が手元を離れてしまったいま、それをひとつずつ思い出しながら丁寧にひもとくのは難しいけど、上映後にあわてて書き留めたメモを頼りにできるだけ書き出しておく。

Japanese(Japan?) originが「日本人」と訳されていたこと

冒頭でクリスチャンが自分の祖父母について話していたとき、クリスチャンは"Japanese origin”というような英語を使っていたのに、日本語字幕ではその部分がそのまま「日本人」と訳されていた。ここってそんな風に訳してしまってはまずいんじゃないか。上映終了後のアセンブリーでは「日本人とはだれのことなのだろうか」というような質問が用意してあったし、映像をつらぬく主題としても、「日本人」とは、カテゴリーとは、共同体とは、という部分に対する疑問や問題提起があるように見えた。にもかかわらず、この訳をが字幕として載っていたことがわたしには不思議でならなかった。どうしてだろう。

教師に指摘されたことで日本語を話さなくなったクリスチャンの祖母(レイ)
日本語教育学会に持っていったらどうなるかな。というのは冗談だけれど。第二次世界大戦時の日系人排除によって、クリスチャンの祖父母はもともと住んでいた場所を追われ、強制収容所に移された。かれらはふたりともアメリカ生まれアメリカ育ちだったが、「日本人」であることを理由に排除された、という出来事をきっかけに自らを「日本人」だと思うようになっていったという。そのあとの詳しい経緯は忘れてしまったけど、なんやかんやあってアメリカから日本に派遣されることになった。ふたりにとって、ある意味故郷ともいえる日本で、レイはとある教師に彼女の話す日本語は"farmer Japanese"であると指摘される。そして、その指摘をきっかけに彼女は日本語をあまり話さなくなってしまう。彼女にそんな指摘をした教師は本当にくだらないし大嫌いだけれど、たぶんその教師は「よかれ」と思ってその指摘をしている。「正しい言語」を決定できる「教師」という存在が持つ「権威」。「正しい」日本語を教えてあげようという「やさしさ」からの指摘なのかもしれない。なにより、その教師みたいなひと(教師ではなくてもいい)はたぶん今の日本にもごまんといる(日本だけじゃないかもしれない)。こんな教師の指摘によって自分のことばを失ったひとは少なくないんじゃないだろうか。なんて、そう思うのは日本語のクラスで権威を(半分無意識に)振りかざす教師を目の当たりにしてきたからだろうか。けれど、わたしもまたそのくだらない教師が持っている考えの枠組みを、自分のものとして持っていることを自覚している。「言語」と「正しさ」との関係、バランスについてはまだ考え切れていないなとしみじみ思ってしまった。わたし自身の経験に直接的にかかわることだから、余計敏感に反映してしまうのかもしれない。

Cultural studiesと出会って息をする場所をみつけた、と言ったウヒ

思わず泣いてしまったシーン。ああ、ウヒはわたしだなあと思ったりしてしまった。ホール・スチュアートのアイデンティティに関する論考を見つけたときの感覚に似ているかもしれない。うまく説明できない。

I don't want to deny anyone. というウヒのことば

例えば、朝の電車で知らないおじさんが思いっきりぶつかってくるとき。わたしの場合、一瞬怒りを感じるものの、それは徐々に驚きやある種の同情に変化していく。基本的には性善説に基づいて生きている/生きていたいから(仕事中はそうでもないかもしれないけど)、どんな人でもその人なりの事情があるんだと考えるようにしている。なるべく。思春期を迎えた娘に「クサイ」と言われて朝からヘコんでたのかなとか。そういうことがあっても、人にぶつかっていくべきではないけど。

自分から見えるひとつの側面やある1点だけで人を判断したくないし、その点だけですべてを否定したくない。ウヒが言ったのは少し違う文脈だったから、彼女のことばを勝手にわたしの文脈で読み替えてしまったかもしれない。

しぶんを語る言語がみつからないと話したウヒ

ウヒが自分を紹介する部分を見逃してしまったことが惜しい。日本語と韓国語と英語があって、それぞれがたぶん彼女にとっては家族のだれかと繋がることばだった。(おばがアメリカに住んでる)台湾文学をちょっとだけかじったときに出くわした、日本の植民地であった時代の台湾の作家たちのことを思い出した。日本語で教育を受けたかれらだから、台湾のさまざまな風景や事象を描くのに日本語を使う。それはつまりどういうことなのか。

上映のあとに、「アセンブリー」という感想を共有しあう場があった。最初は社会学の研究者がいるテーブルに座っていたけれど、人が増えすぎたので自由に感想を語るテーブルに移動した。作者である田中功起さん、こないだまでヨーロッパにいたひと、エキストラで参加したひと、わたし、同じくエキストラで参加したひと(だったかな?あいまい)、映像作品をつくっている高橋耕平さん、友人に紹介されてきたひと、友人に紹介されたひとの友だち、演じるひととして舞台に立ってきたひと、あわせて9人。この9人で映像について話した。
どうして上映会に来ようと思ったのか、という質問から始まった。そして、それぞれのリズムでぽつぽつと、感じたことや考えたことを話す。この感じ、好きだなあと思いながら、話す人をじっと見つめながらそのことばを聞いていた。考えたことや話したことにまとまりが全然ないから、長さも文章の終わり方もばらばらの箇条書きのまま載せちゃう。

・クリスチャンはウヒの感じとっている世界を理解しているようで全くしていない。いつも数センチ的外れなことば(慰めのような何か)をウヒに投げかけている。(わたし)→ノッテルダムで上映したときには、クリスチャンの無理解さに怒っていた香港のひとがいた。ヨーロッパでは社会階層の差が大きいために、いわゆる「上流」といえる階級に属しているクリスチャンには、ウヒが感じるような事柄を感じる機会がなかったのかもしれない。(田中さん)

・友だちの何人かを思い出しながら話を聞いていた。在日コリアンの3世だか4世だけど親戚以外にコミュニティへのつながりはなく、また関心もない。在日コリアンの歴史についてもあまり知らないようだし、興味もない。誰もが知るような大企業に勤めているが、日本の名前に日本の国籍だから、会社でそのひとが「在日コリアン」だと知るひとはあまりいないかもしれない。わたし自身が高等教育を受けたひとだから、まわりにそういうひとが多くなるんだろうけど、階級だけではなく、住んでいる場所の差とか、受けてきた教育の差とか、望む望まないにかかわらず「祖先」についての知識(や関心)の差とかによって、たぶんそのあたりの考え方ってものすごく違う。

・東京と地方という断絶をどう受け止めればいいのかわからないままでいる。

・信条が合わないひととの個人的な対話はどのように行うべきか。そもそも行うべきなのか。精神衛生的には避けたいけれど、良い社会なるものをつくるためには必要だと思っていて、矛盾していることを自覚しながらずっと葛藤している。これからもたぶん葛藤することになる。

・わたし個人の幸せと、わたしが幸せになるための社会。それは相反するものなのだろうか。

・じぶんをマジョリティと信じられることの傲慢さ。一方でそう信じられるひとたちのことをどこかうらやましく思うわたしもいる。じぶんがマジョリティであることが申し訳ないなんて言ってしまえるひと、じぶんが「マイノリティ」にカテゴライズされるなんて考えたこともないようなひとは、言い換えればつまり「おまえは何者なんだ?」と問いかけられる場面に遭遇したことがないひとである、ということだと思うから。

・撮ること、表象することのの暴力性について、田中さんはどう考えているんだろう。(わたしは「表象すること」に対してつよい欲望があると同時に、そのことをすごく恐れてもいる)

・映像があまりにも「綺麗」すぎると思った。

在特会のことはずっと知っていたし、嫌悪してきた。けれど、映像で見るのは初めてだった。耳をふさぎたくなる罵詈雑言。何かきっかけがあるわけでもない赤の他人に対して、激しい憎しみを何の臆面もなくぶつけられるかれらに、予想していたとおりの恐怖を感じた。けれど、一方でかれらをそのまま断罪してしまうのも憚られた。こういうとき、わたしはいつも葛藤してしまう。かれらの行動は許されるものではないからと、かれらを掃いて捨ててしまうべきなのか、それとも、かれらがこのような思想を抱くに至るまでのプロセスに想いをめぐらすべきなのか。

おわり

20190201 日韓女性とフェミニズムの現在地@本屋Title

なかば無理やり仕事を放り投げて、『82年生まれ、キム・ジヨン』の訳者である斎藤真理子さんと、『私たちにはことばが必要だ』の訳者であるすんみさん、小山内園子さんのトークイベントに行ってきた。

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『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んですぐ『私たちにはことばが必要だ』を読んだ。手のなかにちょうど収まるくらいのサイズで、文章も難しくない。見た目もかわいいし、中身もだいたいのことは大切なことだからと思って、中学生の頃から仲良くしている友だちにクリスマスプレゼントとして送ったりもした。

けれど、『私たちにはことばが必要だ』を読んだときに、思わず眉をしかめてしまう箇所があった。わたしがカテゴリーなるものを嫌悪しすぎていることも、わたしが眉をしかめてしまった理由のひとつだとは思うが、その箇所の数十文字にわたしは疑問を感じながら、言語学者である筆者がそのように書いてしまった背景を推測したりしてひとまずは受け入れようとした。でもやっぱり、すこしうんざりして、かなしくなってしまった。

p.17「女性として生まれたわたしたちはすでに直観を持っています。」

女性として生まれていないけれど、後天的に女性となった人たちは「わたしたち」には含まれないのだろうか。そもそも、わたしたちは女性として生まれるのだろうか(これは反語。かのボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのである」と言っていた)。女性に生まれるとはどういうことだろうか(インターセックスの人たちはどうなる?)。そもそも女性とはだれのことを指しているのだろうか。どのようなひとを女性とわたしたちは言うのだろうか。

たった1行の記述にげんなりしただけで読み進めるのをやめてしまうのも惜しいと思い、最後まできちんと全部読んだ。ところどころ、やっぱり眉をしかめてしまう部分はあった。だけど、対話をする気のない相手に対して、無理にことばを尽くして理解してもらおうとする必要はない、というメッセージは、ある意味救いだった。(対話をする気のない相手もまた巻き込むことができる策を考える必要もやっぱりあるのではないか、というようなことを思わないではないけれど)

だけれど、これはほんとうに「女性」というカテゴリーに属する自分に違和感や困惑をおぼえたことがない人が書いたのだな、とも思った。フェミニズムはもちろん「女性に対する抑圧への抵抗」というところから始まっているのだと思うが、バトラーしか読んだことのないわたしからすると、フェミニズムとは「男性」と「女性」という二元論的な対立をことさら取り上げるというよりは、制度的な権威を疑うものであり、現存するカテゴリーそのものに対する疑いを呈するものであるように感じられる。だから、実は、「女性」と「男性」というのはそこまで意味をなさないのではないか、とすら考えている。権力の座についている人々がたまたま「男性」というラベルを貼ってもらえた人々である、というだけのことなのではないか、とか。

フェミニズムについて関心を持ってはいるが、これまでの歴史的な経緯はほとんど学んでいないので、上記の事柄については入門書を読む必要があるんだと思っている。だけど、違和感としてあるのは、フェミニズムは決して「女性」と「男性」、あるいは「被害者」と「加害者」との間の断絶を深める何かではないのに、なんとなく、今回のイベントでの語られ方や、日本での#me too運動は、フェミニズムと言いながらも、なぜか両者を分断する方向に進んでいるような気がすることだ。

イベントの後半に設けられた質問のコーナーでも、そこには「男性」と「女性」しかいないかのように、両者は対立する二項であることを前提に話が進んでいって、なんとなく居心地が悪かった。「男性の方も来ていますが、質問とかありませんか?」と、訳者のひとりが好意的にほほえんで会場を見まわしたとき、「見た目」でそのひとの「性*1」は簡単に判断できるということが不問の前提となっている状況に、猛烈な違和感をおぼえてしまった。クィア理論の講座に参加したときに、「見た目」からその人の「性」を言い当てることは不可能であり、それほど意味があるわけでもないという状況を経験したからなのかもしれないけど。

イベントの雰囲気はすごく素敵だったし、たくさん考えることもあったけれど、イベントのタイトルにあるような話があの場でなされたとはあんまり感じられなかった。うーん。

イベントのときに書き留めたいくつかのことばと、それについての現時点で考えていること&役に立ちそうな文献(have to readという意味で)。

・女性は家族から自由なのか? →Romantic Love Ideologyと関係がありそう。あと国家的な戦略とか政策とか。牟田和恵(1996)『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』あたりを読めばいいのかな。

・兵役という人生に組み込まれた「暴力装置」 →何人もの韓国アイドルの兵役を見届けてきたけれど、「真男子(サンナムジャ)」ということばもあるように、韓国国内における兵役と「男性性」の獲得みたいなものって、わたしが思っているよりもずっとずっと強く結びついているのかもしれない。たぶんセジウィックの『男同士の絆』を読んだら多少は考えが深まる気がしてる。

『私たちにはことばが必要だ』には、「女性」だけではなく、何らかの抑圧や差別を受けているひとが、自分の精神を消耗しすぎないようにするためのTipsがたくさんつめこまれている。だけど、他者と自分は同じ人間ではないからそもそも理解しあうことは不可能であること、それでも自分ではない誰かを理解するために対話を試みることは必要であること、というような考えを大前提にしたうえで、それらのTipsを使うべきだとわたしは思う。今度書こうと思うけれど、おそらくわたしは、自分が「加害者」にならない保証はない(というかむしろ何らかにおいては加害者である)と考えている。そして、「加害者」になったとしても、なんらかの償いをすれば、許される世界であってほしいのだと思う。

違和感ばかりつづってしまったけれど、とある件について、「生きづらそう」とか「考えすぎ」とか、わたしと対話を求めているわけではないことばを知らないひとから無遠慮に投げつけられたときに、問答無用で片っ端からスルーすることができたのは、この本を読んでいたからだった。その点に関してはとても実用的で、読んでおいてよかった本だったと思っている。

おわり

*1:「セックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」というバトラーのことばに影響を受けすぎてジェンダーともセックスとも書くことができずに「性」とかいう謎の単語を使ってしまった。