筆記本

足を運んだもの

20230318 ミナト町純情オセロ〜月がとっても慕情篇〜@東京建物Brillia HALL

はじめての劇団☆新感線を悪名高いブリリアホールで。

www.vi-shinkansen.co.jp

幸いなことに「死」の席ではないそれなりに見やすい席で観劇。全体的にこぢんまりしていて高低差もあんまりないのに、つくりは大きめのホールのようになっていてなんだか不思議だった。直前にPARCO劇場で「おとこたち」を観たところだったので、全体的に平たい感じにちょっとびっくりした。

あらすじ(公式サイトより、一部改行など編集)

復興とともに新たな混沌が生まれつつあった1950年代の日本。シノギの世界でも血で血を洗う争いの末、新たな勢力がのし上がりつつあった! 
その中の一つが、関西の港町・神部をシマに戦後の混乱の中で勢力を拡大した沙鷗組である! その中心にはブラジルの血を引く若頭筆頭、亜牟蘭オセロ(三宅健)がいた。図抜けた腕っぷしと度胸を武器に、若頭補佐の汐見丈(寺西拓人)とシマを広げてきたオセロ。しかし、四国の新興ヤクザ六甲組に組長を射殺された現場で、オセロはその場に居合わせた町医者の娘、村坂モナ(松井玲奈)に惚れ、組を抜けてカタギになることを決意。
これが「オセロを二代目組長に」と考えていた、先代組長の未亡人アイ子(高田聖子)の恨みを買う! アイ子はモナに横恋慕する市議会議員の三ノ宮一郎(粟根まこと)も利用して、裏切り者オセロを地獄に突き落とすと心に決める......。襲名辞退を知った沙鷗組の上部組織・赤穂組は、四国から船で来襲する六甲組を倒すことを条件にオセロの足抜けを認める。そこでオセロは瀬戸内の漁師を束ねる顔役に力を借りて、六甲組を海上で迎撃! 作戦は見事に的中して六甲組は壊滅に追い込まれた!
だが、アイ子の奸計によって、オセロは次第に友や恋人に対する嫉妬、そして不信の心を掻き立てられていく。その渦は周囲の人々を巻き込み、逃れることのできない悲劇へ誘うのだった―。

公演時間が4時間もあるので途中で集中力が若干切れてしまう場面もあったが、原作がある程度わかっていればそんなときでも物語の見通しはついている(物語を展開させる人物や小道具が分かっている)状態でいられるので、事前に原作を読んでいくのがおすすめ。シェイクスピアは解釈合戦みたいなところがあるみたいなのでYoutubeなどで別のバージョンのオセロを見てから行くのも楽しそう。私はこれが初劇団☆新感線にして初オセロ。

原作の訳者あとがきで松岡さんが「オセローのmy girlというデズデモーナの亡骸への呼びかけは、そして、他のシェイクスピア劇におけるmy girlの使用例は、この悲劇の夫と妻の年齢が父娘ほど離れていることの確たる証拠にはならないまでも、傍証にはなるだろう」(p.252)と書いていたので、オセロは中年男性、デズデモーナはうら若き乙女、と思っていたが「ミナト町純情オセロ」のオセロはそこそこの若者という設定でちょっと面食らった。ただ、若いオセロと若いモナだからこそのかわいい大はしゃぎと初々しさが垣間見えるいちゃらぶシーンはマスクに感謝するぐらいニコニコしてしまった(ニタニタ、だったかもしれない)。松井玲奈さんのモナがずっととってもキュートでラブリーだった。

原作で嫉妬心に火が付くその速さに「もうちょっと導火線長くてもよくない?」と感じていたところは舞台でも同じような感想。原作だとキャシオーが若くてカッコいいからってところがオセロの不安をあおって嫉妬心に火がついた風だったが、ミナト町純情オセロでは、汐見が大卒で出自も気にしなくていいマジョリティ側の人間、という点がオセロの劣等感を刺激したということらしい。汐見の出身大学が明治大学で「大したことないって思いました?」的なツッコミが入って笑いが起きていたところ、関西だと関東の私大はそんなに有名じゃない、といういじりかと思ったら脚本家の出身大学だった。なるほど。(関西だとMARCHもよくわかってないのでは、って勝手に思っているがどうなんだろう)

それと、原作ではムーア人ということで差別を受けるオセロが「ミナト町純情オセロ」ではブラジル人とのハーフということになっていて、そしてなぜかアイ子さんマジョリティ側ではなく在日朝鮮人/コリアン(以下「在日」)ということになっていた。

オセロがブラジル移民2世で父日本人・母ブラジル人のハーフという設定に対して、父を殺されたとしても母はブラジル人なんだから日本に帰ってくる前に現地の親族頼るのでは?そもそもオセロの母はどこに?こんなに流ちょうな関西弁を話せる設定ってことはブラジルにいたときも現地の県民会コミュニティにどっぷりだった?「ハーフ」ってことで差別されてたのに?それとも幼少期に日本に帰ってきたということ?戦争の真っただ中または終戦直後の混乱期に?みたいな細かい設定がずっと引っかかってしまい(もしかしたらセリフを聞き逃したのかもしれないが)、オセロを在日ってことにすれば関西(神戸)が舞台だし色々辻褄合ってやりやすそうなのにな、なんて思っていたら、アイ子さんが「関東大震災のときにデマから逃れるようにして関西にやってきた」というエピソードを披露するのでちょっとうろたえた。

デマに人生を翻弄されながらも生き残ったアイ子さんが、夫を失った憎しみから自らデマを流して他人の人生に致命傷を与えることの悲哀、と解釈することができるのかもしれない。アイ子さん自身も布引のちょっとしたひとこと(オセロは親分をかばって撃たれたのではなくモナをかばっただけ、親分はそのせいで死んだ、とかなんとか)に翻弄されたとも解釈できるのがまた哀しい。

家に帰ってからパンフレットをぱらぱらと見ていたら、アイ子さんの背景については特に言及なし。関東大震災でデマを流され、在日がひどい目に遭ったことは常識だからなのだろうか。実際には地方出身者もあ被害者にいたりするようだから、そこは主題ではないとしてわざわざ書いていないだけかも。パンフレットの一番最後に特別寄稿として三木那由他さんがコミュニケーションとマニュピレーションの話をしていて驚いた。

悲劇、ということでオセロはモナを殺し、オセロも自殺。周りの人も誰かをかばって死んだり傷ついたり。ただ、愛し合うふたりが最後にふたりとも死んじゃうのはハッピーエンドだと感じてしまうところがあって、そういう意味では、眠るように死んでいるモナのそばでオセロが自ら喉を掻っ切って死ぬシーンにはちょっとしたカタルシスを感じてしまった。新型コロナの波がやってくる直前に観た鄭義信の『泣くロミオと怒るジュリエット*1』(在日コリアン版のロミジュリ)で、ロミオをジュリエットが死んだあとに結婚式を挙げるシーンが夢みたいにきれいだったから、モナに覆いかぶさるようにして死んだオセロを見たときにそれがよぎって、こっちのふたりも白装束で綺麗だなと見当違いな感想を抱いていた。

愛する人間の不在、それでもまだ確かに生きて存在する自分に耐えながら生き続けるよりは、何も感じないように死んでしまった方がある意味幸せでは?と考えると、いちばんの悲劇は夫を亡くしたうえに死ぬことも許されないアイ子さんだよなと思う。

全体的に関西弁は違和感がある箇所も多少あったけど、生理的に受け付けないほどではなかった。三宅健さんはガチ関東の人のはずで、ガチ関東の人はたいていアクセントが変なのに、ときどき全く違和感のない関西弁を話していたのはちょっと意外だった。他の役者さんもだけど。

最後に役者さんたちがあいさつに出てくるところで、舞台に上下で生歌唱があってそれがエンドロールみたいになっているのは初めて観る演出で楽しかった。

おわり

20220124 かが屋の新春ネタ初め一週間興行 「寅」@駅前劇場

三者三様以来、久しぶりのかが屋。単独っぽい公演は3年ぶりくらい。Youtubeチャンネルもあまり見れていないので新ネタだったのかは分からないけど、全部まるっと面白くてそれでいてほっこりするやつで、かが屋のコントだ!って感動しながら泣くほど笑った。笑いすぎて泣いたのか、泣けてくるのに笑っちゃうのかよく分からない感じもまたかが屋って感じだった。

冒頭、色違いの袴を着て出てきたふたり。加賀くんが着付けをしてもらっているときに「黒ギャルはプライベートも黒ギャル」って言ってた気がするけど、あれは俺の空耳?と加賀さんに聞く賀屋さん。どうやら着付けをしてくれた後輩が、公演のイラストを描いてくれた人の言った「陶芸家」という単語を「黒ギャル」と聞き間違えたことに端を発したコメントだったらしい。「陶芸家」を「黒ギャル」って聞き間違えた後輩くんがいちばんおもしろい。何それ。

茶店かが屋の恋が始まりそうなネタ。まじでめっちゃ大好きなやつ。加賀さんの手が震えてカップがカチャカチャするとこ、最後カチャカチャの音だけ(加賀さんは舞台上にいなくて袖から音だけ聞こえてくる状態)で笑えるとこまで持って行くのがすごい。あと賀屋さんがこういう心根まっすぐオラオラキャラしてるのすぐ笑っちゃう。

熱:最初の丁寧なパントマイムが見事に回収されていくさま。「これが私たちのバランス」って嫁が旦那をお姫様だっこしてはけていく終わり方もほっこりかわいい。コントの中で賀屋さんが着てたピンクのふわふわジェラピケみたいなパジャマがなんかやたら面白かった。おもむろに嫁のおっぱい揉むとこで岡部さんwwってなったのたぶんわたしだけじゃない。

努力:謎に「友だちとカバーしたいコント」って思ったコント。カバーしたいコントってなんだろう。でも友だちとやったら楽しそうなんだよ。シンガーソングライターの賀屋さんのビデオもちょうど良い胡散臭さとリアルさで好きだった。

賀屋ピンネタ①:フリー演技(?)のところ、何か大それた仕掛けがあるわけではないのにただただツボって笑い死ぬかと思った。例の駅のくだりで呼吸困難になるぐらい笑ったのに1ミリも覚えてない。最高。

賀屋ピンネタ②:昼の部では3分40秒だったのでひとくだり追加してみたらひとくだり抜かして夜も3分40秒になった、という不思議な展開。

お題「寅」:ここはアドリブだったのか決まってたコントだったのか。加賀さんが禁煙したのほんとのことだったからどっちなんだろう?と思いながら見てた。唐突な寅さんのモノマネ。申請すれば見返りがあったかもしれないのに!って発想おもろかったな。

お風呂:本人だけバッド入っちゃうやつ。パンイチの加賀さんと妻な賀屋さんがお風呂の温度ボタン取り合って取っ組み合いするとこめっちゃおもろいのと加賀さんがガリガリだ~!経費のくだりが爆発的に受けてた。みんな働いてる人なんだな……ってなぜかほっこりした気持ちになった。うんちが固めだったのかゆるめだったのか気になって気になって気になってた。

S:恋が始まりそうなネタマジでほんとに大好き。「僕が〇〇〇だって知ってるんてすか?!?」ってなったときの加賀さんの表情アホほどおもろい。賀屋さんはずっとマツコ・デラックス。何かのプレイを見せられてた。

占い:出オチwwと思ったのにそのあとちゃんと面白くて大好き。加賀さんは女装すると(女装なのかなもはや)強そうな女になるのがかわいい。占ったところで「そりゃそうなんだよ!」な結果しか出ないところも最後にふたり意気投合するのもちょう良かった。

そういえばいつもはアセロラ体操のところが今回はVulfpeckのかっちょいい曲でとてもテンションが上がった。公演特別仕様だったのかな。公演のタイトル読み上げるときに絶対つっかえそうになる賀屋さん、毎日8時に起きてラジオ体操してコント作ってコントする毎日は最高!ってまた目がキマッてた加賀さん、ともによかった。 爆裂良い席があたってたのに中止になった2020年の単独、いつかリベンジあるって信じてる。今年もちょくちょく見に行きたい!

おわり

20220114 だからビリーは東京で@東京芸術劇場

よくよく考えると舞台を見に行くのは2020年2月の『泣くロミオと怒るジュリエット』以来だった。新型コロナの感染者がちらほらと出てきはじめた頃で、千秋楽を迎えることなく終わってしまった作品。2年ぶり、東京に来て2回目の東京芸術劇場

www.geigeki.jp

主人公の大学生、石田凛太朗は『ビリー・エリオット』への感動と興奮から舞台役者を志して劇団ヨルノハテに入る。その劇団は分かりやすく行き詰っていて、みんなで次回公演の準備をしながらも、作品への熱量を持っているのは凛太朗ひとりだけのように見える。ほかの団員とさまざまな演出を試すなかで、凛太朗はきらきらした熱量をにじませながら演じることや台詞への戸惑いや喜びを表現する。その様子は、行き止まりに面しているように見える他の団員の存在もあってか、舞台上でとりわけ生き生きとしているようで、それがなぜか切なくもあった。

結局、コロナのせいで公演は中止になる。演劇を含むエンタメは「不要不急」とされ、凛太朗を含む団員たちもそれぞれにそれまでとは異なった生活を余儀なくされる。ビリー・エリオットに感化されて何者かになるはずだった凛太朗は一度も舞台に立つことなく、行き場を失ったままポンと空中に投げ出される。劇団にいたほかの団員たちの生活も一変し、それをきっかけとしてお互いの関係性も少しずつ変化していく。コロナ禍で仕事を失った人/仕事が増えた人、コロナ禍を誰かと共に生きている人/ひとりで生きている人、という、ごくありふれてはいるが重要な対比も鮮明に描かれる。

「東京では何者かになる途中でいられるんだ」

ウーバーイーツの配達中、車に撥ねられた凛太朗は唐突に台詞を理解する。結局中止になった公演で、脚本を書いた能見さんにそうじゃないんだよなあと何回かダメ出しをされていた台詞だった。役者から黒子に転じた団員たちに支えられて宙を舞う凛太朗を見ていたら、2年前に観た劇団ゆうめいの「残暑」に出てきた台詞が思い出された。

「汚いクツで歩ける東京は最高です」

役者を目指して東京に出てきた主人公が、初恋の人と銀座で食事したあとに放った独白。何者かになる途中の状態、端正でない身なりでもそれらしく見えて許されうる場所。何者かになりたい人にとって、先が見えない今この状態は苦しいのだろう。他人事のような言い方になってしまうのは、舞台上に提示される切実さと、わたしがこの2年で経験した閉塞感と共にある穏やかな静けさが少し違ったものに感じられるからだと思う。

いわゆるコロナ禍に入ってから今までほとんど出社せず自宅で仕事をしている。「ひとりってほんとうにつらいんだよ」と乃梨美が言っていたように、それはそれで大変なこともあったが、少なくとも仕事がなくなったり給料が減ったり、安全が脅かされることはなかった。仕事面ではむしろ評価されることが増えて昇進までした。だからこそ苦しくもあった。身近な友人たちと嬉しかったことを共有したいけれど、もしもそんな状況になかったらどうしようか、という逡巡。そんなことを考えられるわたしが置かれていた状況を、舞台上の彼ら、またはこの舞台を作り上げている人たちの状況と重ねて無邪気に共感しようとすることはできないと思った。

最終的に劇団は解散することになる。能見さんは、その前に、ぼくたちについての、ぼくたちのための舞台をやろうと言う。そして、作品の冒頭と同じシーンが再び演じられる。全てを経験した凛太朗と団員たちによる劇中劇としての再演。客席からもすすり泣く声が聞こえるのが印象的だった。

前に読んだアンリ・グイエの本に、舞台上で起こったことが「存在する」とみなされるのは、「知覚の問題」ではなく「判断の問題」で、その判断は「上演において劇行動を現前させる俳優の仕事であるだけでなく、観客の問題でもある*1」と書かれていた。とすれば、最後の劇中劇は何だったのだろうか。そもそもアンリ・グイエの文章は虚構が現実として立ち現れるために、という文脈で書かれたものだったと思うので、ここで引用するのもお門違いなのかもしれないが、観客なき演劇は演劇といえるのだろうか、という、たぶん演劇に関わる人たちがもう考え尽くしたであろう問いが浮かんだ。一方で、無観客配信も当たり前になった今、観客なしに自分たち(または一度も舞台に立つことのなかった凛太朗)のためだけに演じられるヨルノハテの作品と、収録用カメラの向こうにいる観客のために無人の劇場で演じられる作品たちとの違いは、厳密にどの部分にあると言えるのだろうかと考えてみたりもした。でも、そもそも役者になるはずだった凛太朗が役者をするための舞台だから、そんな問いを立てること自体がとんちんかんな行為なのかもしれない。

ちょっとした小ネタや演出もおもしろかったなー。オンラインでの集まりあるある(ミュートになってる、固まっちゃう)も、オンラインで対面せずにやることを、この劇場という物理的な場所で人と人が対面した状況でやること。凛太朗が宙を舞うところもそうだけど役者が急に黒子になったり、黒子なのかそこに「存在する」のかが分からなくなるシーン。ひとりひとりの独白から他の役者も交えた回想に切り替わるところ。人が変わるとこんなにも解釈が異なるのだと改めて思い知らされ、そしてそれは身に覚えのあるものでもあった。

アル中の父親とのやり取りはいまひとつ消化しきれなかったけれど、かつて暴力をふるっていた父親から逃げる凛太朗の様子は、一度染みついた恐怖が伝わってくるようで苦しかった。舞台装置も脚本もあるとはいえ、人間の身体からにじむ記憶みたいなものを身ひとつで見ている人に分からせる役者ってすごい。

あと、急に韓国語が出て来て面食らったりもした。アクセントがアレでうむむとなったり、恋人に使う「会いたい」だったら만나고 싶다より보고싶다のほうがしっくりくるんじゃ?いやいや韓国語しゃべってるのは日本人役だし気にしちゃだめなやつか?とかいろいろ考えたりしてしまって少し集中力を削がれてしまった。

そういえば開演前に近くで大学生らしき人たちが「うわ来てたんだ!久しぶり!」と挨拶を交わしていてなんだか懐かしかった。ピロティを通り過ぎるとき、銀杏並木の大通りを歩いてるとき、講義棟の階段をのぼっているとき、たまたま同期と出くわしてうわ!となる感じ。そういった偶然の再会もいまのご時世じゃあまりないからか、余計に恋しかった。

おわり

*1:アンリ・グイエ(1990)『演劇と存在』未来社 p.27

MIU404の久住のこと

久住は「ダークナイト」のジョーカーのようないわゆる純粋悪の化身ではなかった。それ相応の過去を持ち、何かしらのきっかけで悪事にはたらいてしまったひとりの人間だった。そして、「JOKER」のジョーカーのように、誰にでも分かるお涙頂戴的な物語を来歴に持つ存在でもない(その来歴がどこまで本当なのかという推論はおいといて)。

「俺はお前たちの物語にはならない」

久住は劇中の登場人物に、視聴者に、自ら「理解可能な何か」になることを許容しないという明確な拒絶を表明する。

嘘か本当か分からない身の上話を語ってきた久住が、彼にも「過去」があったことをにおわせ、無様な姿で逮捕され収容される。最終話で明らかになったのは「人間ならざる悪のカリスマ」のように見えた久住も「ただの人間」でしかなかったことだった。しかし、彼がなぜ数々の悪事をはたらいたのか、そこにどのような理由があったのかについて、最終話で語られることはない。万が一続編があったとしても、それが語られることはないだろうと思う。

物語は「終わり」があってはじめて物語として成立する。人の人生から「物語」を生み出すためには、物語化というプロセスが必要となる。ひとりひとりの人生は、澱のようにたまる時間のなかで、出来事として切り出せる何か、または出来事としても切り出せないような行為を経るだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ生きているだけで物語が生成されることはない。そのため、物語を生成しようとするとき、手始めに「終わり」を据える地点を定め、次いで「終わり」に向かう違和感のないプロットを編むことが必要となる。物語は「真実らしさ」で聴衆を納得させるため、物語化のプロセスで、さまざまな出来事や行為に対してプロットに沿うか沿わないかの取捨選択が起きる。

「どれがいい?」

名前や生い立ちを求められて久住が吐き捨てるように言ったそのセリフは、誰かにとって都合の良い物語を作ることにうんざりした人たちの言葉のようにも聞こえた。

三者から「物語」を期待されやすい人たちと、あまり期待されない人たちがいる。「人たち」と、あたかも特定の集団がいるかのように語るのは正しくないが、何かしらの側面でいわゆる「マイノリティ(少数派、権力を持たない/持てない、ラベリングを付される側)」の要素を持つ人は、そうでない「透明な」人よりも物語を期待されることが多い。

やっかいなのは、期待されたものとは異なるトーンの物語を提供してしまったときに、過剰なまでの同情や哀れみ、また、時には怒りが寄せられてしまうことである。ただほんとうの話をしただけなのに、その物語を期待したはずの誰かはどうやら困惑しているようだ。そうしてハッと気が付く。「らしい物語」を語れとでも言うかのような、期待に満ちたまなざしが向けられていたことに。かれらが聞きたいのは「語り手にとってのほんとうの物語」ではないのだ。かれらが傷つくことのないよう、驚くことのないよう、内容の濃淡や刺激で失望したり戸惑うことがないように、うまく調整された物語。期待されていたのは「ほんとうらしい物語」だったのだ。かれらが自分たちの現在地を確かめるためのエンターテイメントみたいなものだ。

そういったことが繰り返されると、目の前に現れた誰かにたいして、「わたしにとってのほんとうの物語」や、まだ物語にもならないような欠片を話すことはなくなっていく。この人が求めているのはどのテイストの物語だろうか。相手の期待に合わせて物語のレベルを調整することで、相手は満足し、コミュニケーションも滞りなく行われる。いいことばかりだ。そして、物語をいいように搾取されるばかりだった語り手は、物語の編集や捏造によってその場の支配を可能にする。あるいは、そうすることでのみそれが可能になる。

「どれがいい?」

諦めと嘲りが混ざったような声の調子。強烈なシンパシーと自己嫌悪が呼び起されて耳から離れない。

おわり

20200221 泣くロミオと怒るジュリエット@シアターコクーン

桐山照史が関西弁で舞台?しかも鄭義信作品?という軽いノリで観に行ったら、ロミジュリというよりかはパッチギで、時代背景とか歴史とかを知っているのと知らないのとでは見える世界が全然違うだろうなと思いながら、細かい演出やちょっとしたセリフに心臓めった刺しにされて死ぬほど泣いた。

www.bunkamura.co.jp

あらすじ(公式サイトより引用)

戦争が終わって5年。港を擁する工場街ヴェローナ。工場から出る黒い煙と煤に覆われた鉛色の街。その街の空気をさらに不穏にしているのは、顔を合わせる度に揉め事を起こす2つの愚連隊”モンタギュー”と”キャピレット”だった。“モンタギュー”の元メンバーで、今は更正してカストリ屋台で働く奥手でまじめな青年ロミオ(桐山照史)。ロミオの親友で、喧嘩っ早くいつも問題を起こす張本人のマキューシオ(元木聖也)と、正反対に聡明で理知的なべンヴォーリオ(橋本淳)。3人はそれぞれに、今の時代や自分の境遇に悩みや閉塞感を感じていた。そんな日々の憂さ晴らしに3人が出かけたダンスホールで、田舎から出てきたばかりのジュリエット(柄本時生)に出会い、ロミオは人生で初めての恋に落ちる。しかしジュリエットはなんと、敵対する“キャピレット”のリーダー・ティボルト(高橋努)の妹だったのだ…!そんなことはお構いなしに燃え上がる2人の恋。ロミオは白頭山東洋治療所の店主で父親のような存在のローレンス(段田安則)に相談するが…。2人を取り巻く様々な人物と共に、街は大乱闘に巻き込まれていく…。

戦争が終わって5年ということは1950年、ちょうど朝鮮戦争が起きた年。ロミオがジュリエットに出会う前、モンタギュー愚連隊のヤツらが「俺たちに明日はあるのか?」と話しているときに「戦争が始まっちまった」というようなセリフがあったが、それはおそらく朝鮮戦争のことを指していたのだろう。

1945年、日本が敗戦国となり、植民地だった台湾や朝鮮半島の人々は解放された。強制労働や経済的な事情から日本に渡っていた旧植民地出身者(台湾や朝鮮)も多くが本国に帰ったが、「国に帰っても住む家もなければ耕す田畑もない人、そして日本ですでに生活の基盤を築いている人*1」は日本に残った。

モンタギューのヤツらが警官から「三国人」と呼ばれていたことや、マキューシオが警官の耳元で「ケェセッキ」と侮辱の言葉を吐いてボコボコにされていたことから、かれらは朝鮮半島にルーツを持ちながらも「帝国臣民」として育ち、そして「同じ国」だった日本に渡った1世、または、そのような人々のもと日本に生まれた2世なのだろう。

ロミジュリもとい日本人の少女と(在日)朝鮮人の青年のラブストーリー。『パッチギ』もそんな感じだったけど逆だったよなとか思ってNetflixで観て、パンフレットを読んでいたら鄭さんが『ウエストサイド物語』のオマージュと言っていたので『ウエストサイド物語』も観た。

作品 発表
時期
舞台
設定
詳細
ジュリエットの家 ロミオの家
ロミオとジュリエット(戯曲) 1595 1300 キャピレット
神聖ローマ帝国皇帝派
モンタギュー
ローマ教皇
エストサイド物語(映画) 1961 1957 ジェット団
プエルトリコアメリカ人1世
シャーク団
ポーランドアメリカ人2世
パッチギ(映画) 2005 1968 京都朝鮮高校
在日朝鮮人2-3世
京都府立東高校
日本人
泣くロミオと怒るジュリエット(戯曲) 2020 1950 キャピレット
日本人/内地人
モンタギュー
三国人/外地人 or 在日朝鮮人1-2世

青字は被抑圧層または階級が低い方。『ウエストサイド物語』だとどちらも移民の家で、警官だけがアングロサクソン、つまりは正当なアメリカ国民とされる階層。こうやって比較すると、『泣くロミオと怒るジュリエット』ではロミオが弱者のほうの出自になっていて、構造がちょっと違うことが分かる。

『ウエストサイド物語』でトニーが殺されたとき、マリアは銃を奪ってこう言う。

All of you! You all killed him! And my brother, and Riff. Not with bullets, or guns, with hate. Well now I can kill, too, because now I have hate!

あんたたちみんな!みんながトニーを殺したんだ!兄を、リフを殺した。銃弾や銃じゃなく、憎しみ(hate)で殺した。わたしにも殺せる、わたしも憎んでいるから!

鄭義信版ロミジュリは舞台を戦後にしたからか、死の理由が戦争に関連づく部分が多かった。ティボルトが死を願ったのは、彼が戦場ですでに人間として生きる希望を破壊されてしまったからだろうし、ジュリエットが偽の毒を飲まなければいけなかったのも、戦争で誰も信じられなくなった金貸しの執拗な取り立てがあったからだった。『ウエストサイド物語』をオマージュしていて、しかも在日の話だったら、両者の争いや憎しみ(hate)がなければ彼が死ぬことは無かった、と『ウエストサイド物語』と同じようなまとめ方をしてもよさそうなのに、何か思い入れがあったのだろうか。戦争がその究極のかたちということなのかな。

個人的にいちばん印象的だったのは最後の場面。かなしくて美しかった。人々が互いに殺しあうなか、牧歌的なゆったりした音楽が流れ、血のように赤い花びらが大量に降り注ぐ。舞台の奥から、純白のタキシードとドレスをまとったロミオとジュリエット、白装束に身を包んだティボルトとマキューシオが姿を現す。窒息してしまいそうな勢いで降り注ぐ花びらのなか、ロミオとジュリエットは静かにキスを交わす。

正直なところ、ロミオとジュリエットという名前を踏襲する必要はなかったのでは、と思うくらい鄭義信が濃かったけど、名前がカタカナのままで日本名とか朝鮮名とかそういうものがパッと聞いてわからないからあえてそのままにしているのかなとも思ったり。

おわり

*1:田中宏(2013)『在日外国人 第三版 —法の壁、心の溝』岩波新書

自殺する男(菅田将暉主演・栗山民也演出「カリギュラ」)

わたしはこの戯曲についてあまり冷静に語ることができない。カリギュラはあの冬の夜を経験したもうひとりのわたしだった。あの狂気をわたしは知っている。それはわたしのなかに今もある純粋で理路整然とした狂気だ。

場面は貴族たちが話し合うシーンで始まる。妹ドリジュラの死をきっかけに姿を消したカリギュラの居場所やその失踪の理由について、彼らは心配そうにしかしどこか滑稽な会話を交わす。時間が経てば忘れるだろう。女ひとり死んだところで代わりの女はいくらでもいる。ある貴族は語る。わたしは昨年妻を亡くした。つらくないわけではないがもう忘れてしまった。人間はそういう風にできている。人は空いてしまった穴の存在そのものを忘却するように出来ている。 そう、それがあるべき喪のあり方だ。彼らの言うことは正しい。

貴族たちが去ったあと、舞台には静かな暗闇が訪れる。細く甲高い音が響くなか、刺すような赤色が舞台の奥に広がった暗闇を縦に切り裂く。そして、その向こう側から、真っ赤な光で染め上げられたカリギュラが、ひどく憔悴した様子でその姿を現す。音もなく世界の裂け目をゆっくりと押し広げ、こちら側に足を踏み入れる彼はぐったりとしていて、自分と自分以外とを隔てる境界線を確認するように一歩一歩を踏みしめる。ぼろ布のようになった衣服、静かな緊張と弛緩を繰り返す肉体は、省略された時間のうちに肉体を襲った様々な感情の存在を暗示する。彼の表情や肉体の動きはある種の諦念をたたえているようにも見える。

人は 死ぬ。人は 幸福ではない。(p.23)*1

ドリジュラの死によってカリギュラがたどりついたのは馬鹿馬鹿しいほどに単純明快な真理だった。そう、人は死ぬのだ。「死」とは何か。「死」を傍観する者にとってのそれは、耐え難い永遠の不在である。「死」という出来事は、いまこれを書いている、そして読んでいる「わたしたち」にとって遠い何かではない。「死」という言葉は難しくない。文字にするのも音声として発するのも簡単だ。その概念に触れるのも難しくない。毎日どこかで誰かが死んでいて、わたしたちはニュース等で文字で映像で音声で日常的にそれらを目にしている。それはとても身近にある何かだ。今この瞬間も世界のどこかで死にゆく死んでいる死んだ人がいる。その誰かが死んでも世界は変わったりはしない。

しかし、その死は間違いなく誰かの世界を一変させる。「死」というそのたった一音節が意味するところを確かな手触りを以て理解するためには、「死」という事象を通して、当たり前のように認識し受け入れている世界のありようについて、暴力的ともいえるほどの大きな変化を経験していなくてはならない。自ら拒絶することを許されず、また逃れることもままならない状況で、「死」という到底理解しがたい事実を喉元につきつけられてなお生きているという体験をしなければならない。それは空虚な単語、喉奥から発せられる音の波ではない。文字や映像や音声を媒介としたところで、世界が突然他人のようによそよそしく感じられるあの瞬間を知らない第三者は、「死」について本当の意味で理解することはできない。

人は絶望することがある、おれもそのことは知っていた。だが絶望ということばが何を意味するのか知らなかった。それはみんなと同じように魂の病だとばかり思っていた、でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。皮膚が痛む。胸が痛む。手足が痛む。頭の中は空っぽで、むかむかと吐き気がする。いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。そのすべてだ。舌を動かすだけで、なにもかも黒くなり人間がいやになる。(p.36) 

切れ味の悪い刃物でゆっくり刺されるような肉体の痛みは決して知識や言語には還元されえない。永遠の不在という事実による鋭くにぶい痛みをともなう傷跡をその肉体に刻み付けられたことのある人間のみが「死」の意味を理解することができる。

ドリジュラはもうこの世界にはいない。彼女が再びカリギュラが生きているこの世界に戻って来ることは決してない。「死」はそれがもう一度起きることはないという点でどこまでも決定的な出来事だ。

もしおれが月を手に入れていたら。もし愛だけで充分だったら、すべては変わっていただろう。(p.148)

カリギュラが欲したのは、永遠の「生」、つまり、その存在が失われるという恐怖もない確かな実在だったのかもしれない。だがそれは不可能だ。不可能。月を手に入れることも、死んだドリジュラを蘇らせることも、それは「ありえない」ことだ。だけどカリギュラはそれを欲した。

ドリジュラの「死」を経験したカリギュラにとって、世界はすでにその価値や意味を失っている。彼が生きているのは、すべての事物が意味を失った世界であり、そこに優劣はない。つまり、すべての事物の価値は等しく、言い換えれば、すべて等しく価値がない。国庫の財政と人間の命もまた等しく価値がなく、国庫の財政を優先するときに人間の命が重視される必然性はどこにもない。彼の理論に若いシピオンは「ありえません!」と叫ぶ。その叫びにカリギュラは自らが持つ強大な権力の正しい使い方に気づく。権力は不可能を可能にする。荒唐無稽な思いつきで人間の命よりも国庫の財政を優先させることができる。そのことに彼は気がついたのだ。

そして、カリギュラは決めた。万物からその価値や意味を剥奪することによって、価値や意味そのものがもはやその存在意義を失った状態を目指すことを。いずれ「死」によってすべてが無に帰す、「なにもない」状態になるのであれば、なにも「死」を迎えてからそのように振る舞う必要はない。最初から価値の優劣や事物の意味があるように振る舞うことをやめてしまえばいいのだ。それが彼にとっての自由であり、真実だった。彼はすべての人間がその真実の中で生きることを望んだ。

この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。すべては均等になり、地上に不可能がおとずれ、月がおれのものになる。そのときおれもたぶん姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく! 幸福になるだろう。(p.38)

「死」はすべての人間に平等だ。カリギュラは生まれながらにして「死」を待つばかりの人間を世界に生み出し、その運命をもてあそぶかのように支配する神々を憎む。そして己の権力で「死」を支配することで神々に成り代わろうとする。おびただしい数の「死」を自分の前に、そして人々の前に積み重ねることによって、神を愚弄し、「死」そのものを無効化しようとする。

神々と肩を並べる方法はひとつしかない、おれはそのことを理解した。神々と同じだけ残酷になればいい。それだけのことだ。(p.90)

しかし、同時にそれは「生」の否定でもあった。 

他者の「死」によって際立つのは、どこまでも埋め合わせの効かない不在ばかりではない。「死」という事象に対峙している自分自身がまだ生きていることもまた、よりいっそう鮮明になる。「死」によって変容してしまったこの世界にもう意味などないのに、なおもそこで生きている自分に気がつく瞬間の戸惑い。

この静かな日曜日の朝、もっとも暗いさなかにあって。

いま、すこしずつ、深刻な(絶望的な)命題がわたしのなかで沸きおこってくる。これからは、わたしの人生にとっての意味とは何なのだろうか、と。*2

そうしてなおも生きている自分の前には横たわるのは、火を見るよりも明らかな「死」の到来。そのことを知りながら平然な顔をして生き続けるには「死」に対する恐怖、「死」が自らに訪れる瞬間への不安に対する忍耐が必要だ。「忍耐!」 彼は鏡の中にうつった彼自身がこの世界でまだ生きていることを許さない。彼は鏡の中に自分が自分を見つめかえす瞬間を認め、その視線にギョッとする。

そして、さらに絶望的なのは、「死」によって引き起こされたさまざまな種類の苦しみ―痛み、喪失感、空虚、怒り―さえ長くは続かないという事実だ。

愛する者が一日のうちに死ぬから人は苦しむとそう人は思っているが人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない! 本当の苦しみは、苦悩もまた長続きしないという事実に気づくことだ。(p.145)

いつか自分はこの耐え難い肉体の痛みをも忘れてしまう。あれほどに破壊的だったにもかかわらず、「死」によってもたらされた永遠の不在に対する自らの感受性は日に日に薄れていく。鋭敏ではなくなっていく自分の感性への深い絶望。あの出来事を境として確かに世界はよそよそしい何かに変わってしまった、にもかかわらずその変容をいとも簡単に忘れてしまうことができる自分、あるいは人間そのものに絶望するのだ。

苦しみすら持続しないのなら、ただ過ぎゆくだけの時間、「死」を待つばかりの時間に耐えることが一体何になろう。

「人は死ぬ」という真理を追い求めて「死」を自らの支配下におき、世界の意味を混乱させたカリギュラは彼の理論の中で自由になる。しかし、そこにあったのはなお耐え難い「死」への恐怖だった。彼は怯える。己の犯した罪と迫りくる自身の死の気配に—それは彼自身が望んだものであるにも関わらず―「恐怖もまた持続しない」と震えるカリギュラの姿は痛ましく、切実だ。

俺はまだ生きている!(p.150)

ケレアが率いる貴族たちによってカリギュラは死ぬ。カリギュラは殺される。だがこれは周到に準備された「自殺」だ。ケレアによる陰謀があらかじめカリギュラに露見したとき、カリギュラはケレアを罰することはせず、反対に証拠隠滅を手伝いその陰謀の継続を望んだ。カリギュラの純粋な論理を理解しながらもそれを否定し拒絶したケレアは、残虐非道な暴君から国を救ったヒーローのように見える。しかし、本当のところはひとりの男の、カリギュラという男の自殺を幇助したにすぎない。

月だ、月がほしかった。(p.20)

カリギュラは、神を憎みながら、まさにその憎しみのために、自ら人間の運命を支配する不条理—それは「ありえない」何か―そのものに成り代わろうとした。己が持つ強大な権力を利用し、世界にある不可能を可能にしようとした。しかし、不可能を可能にすること、それは冒頭から過去形で語られる。果たしてこれは偶然だろうか。違う。これは最初から自殺の物語だったのだ。

 


太陽のうそつき ゆらゆら帝国

 

カリギュラ、彼について語りたいこと、語るべきことがあまりに多い。二重人格。セゾニアの肉体を通した存在確認。シピオンとの対話。カリギュラがシピオンに託したもの。ドラマトゥルギー。理解不可能性と葛藤(セゾニアと詩人)。セゾニアを殺す優しさ。共犯者としての観客。概念として解釈すること。現代社会。

それにしてもたどりついた先のなんと凡庸なこと。

おわり

*1:アルベール・カミュ(2008)『カリギュラ』ハヤカワ演劇文庫

*2:ロラン・バルト(2009)『喪の日記』みすず書房 p.84

20191001 ハムレット@東京グローブ座

はじめてのグローブ座。思ってたよりもずいぶんこぢんまりした劇場だった。いつも森之宮ピロティホールだったからかな。3階席の下手。めちゃくちゃ見やすいじゃん!と思ったのもつかの間、座ると舞台の3分の1くらいが見えなくなった。数年前に韓国の劇場でエリザベートを観たことがあったけれど、4階席ながら舞台全体がまるごと見えていたあの劇場のつくりはすごかったんだなとかそんなことを考えながら開演を待っていた。

ハムレットを観るのは初めてだった。シェイクスピア自体は高校生のときに小難しい古典を面白いと思えるだけの頭がほしくて無理して全部読んだ。当時は面白いと思わなかったが、大学の英文学史の講義で『ヴェニスの商人』を読んだときは、男装してパサーニオの手綱を完全に握るポーシャにドハマりした。『ハムレット』自体はその講義で大昔の映像を観た。古英語で読む機会もあったがあまりハマらなかった。意外と韻を踏む戯曲ぐらいの印象しか持っていなかった。

観劇前後で、すでにハムレットを観た演劇関係者による「菊池風磨ハムレットはすごかった」というコメントをたくさん見たが、わたし自身は物語そのものにあまり入り込めなかったのもあってか、悲劇というよりは喜劇というコンテクストでやや曲解しながらハムレットを観ていた。最近コントを見すぎて目の前で上演される物語すべてを喜劇として解釈する頭になってるのかもしれない。(最近足しげく劇場に通って見ているかが屋のコント、わたしにはそれが上演される場所や観る人が行う解釈の好みや慣れによって解釈が大きく変化しうる短い芝居に思えるが、彼らはあくまでそれをコントとして観客に提供するので、舞台上にて演劇という形式で語られる物語すべてをわたしはコントあるいは喜劇として、滑稽さやおかしみを含むなにかとして解釈しようとするクセがつきつつあるのかもしれない。みたいなこと。説明が無駄に長い。)

印象的だったのは回転する円形舞台という演出、そしてその舞台において唯一動かない中心への人物の配置。第一幕や第二幕では中心に王と王妃。どのシーンだったか記憶があいまいだが、不吉さを増す音楽と薄暗い照明、そのなかでひとり浮かびあがるように照らされる王、クローディアスの姿には鳥肌が立ったほどだった。第三幕でハムレットとレアティーズが一戦交えるシーンも、本人たちの演技はもちろんだが、舞台の使い方も相まって凄まじかった。剣を使う殺陣はものすごい体幹と体力を必要とするだろうにこんな4時間近くある舞台の最後にこんなシーンを持ってくる演出家はとんでもない鬼畜だ(あるいはそもそもシェイクスピアが悪いのか?)。

菊池風磨によるものなのか演出家や翻訳家によるものなのかはわからないが、ハムレットの狂気の表現も特別に感じた。その表現によって、菊池風磨ハムレットはわたしがなんとなく知っていたハムレットかとは少し人物像が違っているようにも思えた。ハムレットを復讐に駆り立てたのは、父を殺した伯父への激しい怒りや憎しみというよりむしろ、父を裏切って伯父と「寝た」母への拒絶とそれでもなお捨てることはできない母への愛情の間で板挟みになってしまったことによるものに見えた。そして、復讐という目的を果たすために自ら愛する人をも傷つけることを厭わないように見える、しかし本当は悩み苦しんでもいるハムレットの姿は、長時間にわたる公演のせいなのか、かすれてしまった菊池風磨の独特の声音もあいまってなんだか切なげだった。

第三幕の最後のシーン、ホレイシオの腕の中で息絶える白装束のハムレット。ホレイシオが後ろから覆いかぶさってハムレットを抱きしめる様はただただ美しかった。物語全体にただよっているミソジニーを削って完全ボーイズラブのお芝居に作り替えて再演してほしい。ものすごい冒涜。いや、シェイクスピアの時代にはそもそも女性は舞台に立っておらず、若い男性が女性役を演じていたらしいしシェイクスピア作品は古来よりおおむねボーイズラブだったのかもしれない。(?)

3階席だったからほかの役者の顔はほとんど見えなかったが、黄色いスーツを着たハムレットの学友を演じていた俳優がとても好きだった。動きやセリフがまるで本人のようで、役を演じている雰囲気が全然なかった。それが良いのかどうか分からないがわたしはとても好きだった。

そういえばグローブ座に向かう道中でchelmicoを見かけた。ふたりもハムレット観に来たのかな。

おわり